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言葉と物語、創作小説

日記は、醜悪

 普通の人の普通の日記は、醜悪だ。
 それを公開するということは、日記を書いた本人が自分の情報に価値があると思っていることにある。
村上龍 明日できることは今日はしない すべての男は消耗品である。Vol.5 幻冬舎文庫 2004, 108p)

 日記めいたことを書こうと思って止めた。見出しは「男のパワー、女の非力」というもので、精神科で患者が不穏化したときの対応について書こうと思った。だが、世の中には精神科に勤めている看護師は数多くいる。そういう人々にとって、患者が不穏になり、たとえば点滴のスタンドを鉄パイプのごとく振り回すというのは、日常であるはずだ。そんな経験をしたことがある人はゴマンといるはずだ。

 普通ではない人の日記というかブログというもので、俳優がベッドシーンを撮るときにどうやるか、というのを読んだことがある。局部をどうやって隠すかから始まって、どうやって本当にセックスをしているように見せるかまで書いてあった。これは、その人の情報に価値がある例ではないだろうか。鉄パイプのごとき物を振り回している患者の対応をしたことのある精神科の看護師よりずっとベッドシーンを撮ったことのある俳優は少ないだろう。これは彼(ブログを書いていたのは男性だった)の価値のある情報ではないだろうか。

 ブログが下火になって、日記を公開している人は少なくなったように思う。最近はnoteなどで「自分の情報に価値がある」と思っている人が増えたような気がするし、その人しか体験しない情報を提示している人もいると思う。だが、元旦の午前2時に保護室から飛び出してきた患者にぶっ飛ばされ、髪を引きちぎられ、眼鏡を壊され、手首を捻挫したという経験くらいは書いてもいいのかな、と思ったりもする。でもたぶん、精神科に勤めていたらそれもありふれた体験のはずだ。

 自分の情報に価値があるとはどういうことだろう? 村上龍は数少ない作家という職業の人で、世界中に旅をして、映画を撮ったり、キューバ音楽のプロデュースをしたりしている。そんな人の情報以上に価値のあるものは無い。彼の情報にはおそらく価値があって、元旦の午前2時にぶっ飛ばされた経験は醜悪だ。自分に才能があるとは思っていないが、少なくとも醜悪なものは書きたくなくはないと思う。

殴ったほうがいい

サッカーにおいて「小さな一点」というのはあり得ない。ゴールのすべてが「取り返しのつかない致命的な一点」なのだ。実況のアナウンサーが「今のは大きな一点です」と言ったら本当は殴ったほうがいい。
村上龍 すぐそこにある希望 すべての男は消耗品である。Vol.9 幻冬舎文庫

 

 この文章を読んで、衝撃を受けた。気持ちのいい衝撃で、笑い出したくなるようだった。殴る、という行為は暴力の一種で、決して肯定されるべきものではない。ここでも、「本当は」とつけられている。だから、殴ったほうがいい、という表現は、比喩の
ようなものだろう。この表現にこめられているのは、本能的な怒りかもしれない。怒り、というのはおおげさかもしれなく、気に入らないものはぶっ飛ばす、という幼児的な反応のような気もする。そのシンプルさは嫌いではない。大人になるといろいろなことを考えて、気に入らなくてもぶん殴ることはできなくなるが、この一文にはそんなの構うものかというパワーがある。

「EV. Cafe」という坂本龍一との共著の中で、村上龍が、頭でこれが重要だと思うことより、体が訴える快感のほうが大事だという話をしていた。頭で殴ってはいけないと考えることより、体のレベルで拒否反応が出るので殴る、みたいなことがこの人にはあるのではないだろうか(ただし村上は同書の中で柄谷行人に言われているように「民主主義者」なので、暴力は振るわない)。いろいろなしがらみをぶっ飛ばし、自分の感覚にすなおになる、そういうことなのかもしれない、そう思った。

「私」

 ひさしぶりにブログを書こうとして、IDとパスワードがわからなくなっていた。パスワードの再発行をしたりしてなんとか復帰したわけだが、よく見たらIDとパスワードをメモしてあった。

 

 過去のブログを読み返すと、「おっ、いいこと書いているな」と思ったり、「この一文を消したい」と思ったりする。共通するのは「私」が見えているかいないかだ。

 

 昔書いていたブログを読み返して、「私」が見えている文章は恥ずかしいと思った。個人的な感情で書いた文章は見るに耐えなかった。消せるものは消した。IDやパスワードがわからないものは消せなかった。恥が残ると思ったが、自分で書いてしまったものはしかたがない。

 

「私」の思いや感情など、どうでもいいと思う。読む人はそんなことを読みたいのではないと思う。読みたい人はいるかもしれない。少し特殊な仕事をしている私の身の回りで起きたおもしろいことをおもしろおかしく読みたいという人もいるかもしれない。私はそんなことを読んで欲しいわけではないと思う。

 

 長い文章を書けなくなった。語るべきことがなくなったのかもしれないと思う。つまらないことを書くくらいなら書かないほうがいいと思う。だが、読まれない文章に意味があるのかとも思う。読まれない小説に意味があるのか、とも思う。

 

 しばらく「私」のことは書きたくない。それがうつくしいことなのかどうかわからない。おもしろいと思ってもらえるのかわからない。だが、私は「私」のことを書きたくない。

 

恥の意識

「恥の意識と無謀な勇気と対象への愛があれば自然と技術は身についてくるものだ」みたいな文章を読んだ気がするのだが思い出せない。村上龍の文章だったはずだ。手元にある限りの村上龍の本をひっくり返したが、どこだかわからない。

「恥」とはなんだと思って辞書(広辞苑 第三版)をひっくり返したら「恥じること」と書いてある。「恥じること」とはなんだと思って引いてみたら「自分が劣っていることを意識して気が引ける」と書いてある。「気が引ける」とはなんだと思って引いてみると「気おくれがする」と書いてある。「気おくれがする」とはなんだと思って引いてみると「自信を失ってひるむこと」と書いてある。要は、自分が劣っていることを意識して自信がなくなる、みたいなことらしい。

 自分に自信があるという状態はこわい気がする。自分がなにかについて無知なことを知らない状態のような気がする。だから「恥の意識」は必要なのかもしれない。だがそもそも「恥の意識」という言葉があったかどうか定かではないので、それが必要なのかどうかはわからない。

 

小説より

小説よりかは柄谷(行人)さんの書いてるもののほうがはるかに刺激的だし、的確だしね。僕なんかだと、少ない時間で本を読むときに、小説を読んで、ああ、楽しかったって終わるより、柄谷さんを読んで、ムム、こんな言葉があるのかと思う方をとるよ。
坂本龍一『EV.Cafe 超進化論』講談社文庫)

 最近、小説を読んでいない。読もうとすると小説の力に圧倒されて読み進められなくなるという良い側面もあるが、小説を読むよりおもしろい本があるのではないかと思ったりする。小説より読みたい本がある。何より、小説を読んでがっかりしたくないというのがある。

 小説を読むときに、誰かに勧められて読むという方法があると思うが、それで読んでみて落胆することも少なくないと思う。それであれば、小説でなくても外さないだろうと思う、わくわくさせられる本を読んだほうが確実だったりする。

 自分で小説を書きながら小説を読まない、活字は読んでいるけれど、それはどういうことなんだろうと思ったりする。上の言葉を信じるとすると、それでもいいのかもしれない。

プライド

絶望した時に発狂から救ってくれるのは、友人でもカウンセラーでもなく、プライドである。
村上龍『すべての男は消耗品である。』角川文庫)

 対人支援職をしているが、相手に解決を求められることが多い。私は友人でもカウンセラーですらないので、困るし、いらだちを覚える。自分で考えてもらうことなので、答えは出さないし、出ない。そういう人は、プライドがないのだろうか?

 辞書によると、「pride」には、自慢、満足感、自尊心、誇り、うぬぼれ、思い上がり、などの意味があるらしい。上記の文章の中で使われているのは、「自尊心、誇り」の意味だと思われる。自尊心や誇りというのは、ふだんあまり使わない単語だ。日本の文化だと、武士の表現をするときによく使うのだろうか。

 村上龍は一貫して依存を嫌う。依存する人間はプライドを持つことができないだろう。逆に、プライドがあれば依存などできないだろう。解決を求められていらだつのは、彼らにプライドがないからかもしれない。

男の筋肉

男性ホルモンのアンドロゲンにも、蛋白結合作用がある。このため、女性に比べ男性は筋肉質である。
(菱沼典子『看護 形態機能学』医学書院)

 筋肉質であることが男らしい、とされることが多い。太く固い腕や、厚い胸板にときめく女性は多いだろう。しかし、それらはすべてアンドロゲンの影響にのせられているだけなのだ。

 文化の影響で、筋肉質であることが男らしい、となっている側面も大きいと思われるし、アイドルのようなきゃしゃな体つきの男性も人気がある。ただしステレオタイプな「男」は単にアンドロゲンの効果であるだけなのだ。

 人間の思考や感情(もしかしたら生命も)は、単純に、たとえばアンドロゲンのような、人体の解剖生理に基づいていることがわかる一冊である。