センチュリー・プラントにようこそ

言葉と物語、創作小説

生きる喜び

怒りは欲求が満たされないときの反応だから、怒りの表現を恐れるということは、欲求することそれ自体を恐れるということになります。そこから始まるのが、感情の鈍麻であり、怒りと共に、喜びの感情も消えていきます。欲求し、それを満たすという「生きる喜び」そのものがぼんやりとしてきてしまいます。
斎藤学『家族依存症』新潮文庫

拙作「センチュリー・プラントにようこそ」の主人公の少年・賢治は誰に対しても怒らない。かすかないらだちのようなものを感じても、怒りには発展しない。彼は怒るべき場面であっても「とりあえずあきらめる」という態度で他人に対する。それが彼の処世術であるからだ。怒ってもどうしようもないというあきらめが彼の基本的な態度である。

 賢治には「生きる喜び」はない。日々を「生きのびる」ことで精一杯だからだ。ただ彼のわずかな生の「喜び」は、片恋をしている少女・素との関わりにおいてである。彼女と手をつなぎ、唇と体を重ね、賢治は幸せを感じる。その感情が恋だと賢治は思うが、それ以上のことについては思い至らない。素を愛しているだとか素に愛されたいとかそういったことは思わず、ただ素が他の男のもとに行ってしまうことを恐れている。彼はぼんやりと生きていて、恋心だけが彼にとまどいを与える。彼は大人になっても怒りを知ることはないだろう。誰に対してもやさしくするという残酷な態度が彼の処世術だからである。