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言葉と物語、創作小説

「お前を殺せたらなあ」

男は笑わなかった。おそろしく無表情で、なんだかさっき見た大蟻の顔にも似ていた。そのうえ男は、そんなふうに彼女を差上げたままでこう云った。「お前を殺せたらなあ」
北杜夫『夜と霧の隅で』収録『羽蟻のいる丘』新潮文庫

 男と女、それに女の子だけが出てくる短篇である。男と女は特別な関係にあるようだが、女の子はその男の子どもではない。それ以上の設定の描写はなく、登場人物の名前も出てこない。女の子の父親についても言及はされない。

 男が差し上げているのは、女の子である。けっきょく男は女の子を殺したりはしなく、あくまで「殺せたらなあ」なのである。殺したいと思った理由については述べられない。

 剣呑な一言だが、男のせつなさがこもった一言のように感じる。他の男の子どもに対する憎しみや、子どもの父親に対する羨望のようなものも入っている気がする。それらをいっきに表現する、すばらしい一言だと思う。

 こういった一言を書ければなあと思うけれど、斎藤茂吉の息子の芥川賞作家に追いつきたいと思うこと自体がひどくおこがましいとも思うのだった。