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言葉と物語、創作小説

殴ったほうがいい

サッカーにおいて「小さな一点」というのはあり得ない。ゴールのすべてが「取り返しのつかない致命的な一点」なのだ。実況のアナウンサーが「今のは大きな一点です」と言ったら本当は殴ったほうがいい。
村上龍 すぐそこにある希望 すべての男は消耗品である。Vol.9 幻冬舎文庫

 

 この文章を読んで、衝撃を受けた。気持ちのいい衝撃で、笑い出したくなるようだった。殴る、という行為は暴力の一種で、決して肯定されるべきものではない。ここでも、「本当は」とつけられている。だから、殴ったほうがいい、という表現は、比喩の
ようなものだろう。この表現にこめられているのは、本能的な怒りかもしれない。怒り、というのはおおげさかもしれなく、気に入らないものはぶっ飛ばす、という幼児的な反応のような気もする。そのシンプルさは嫌いではない。大人になるといろいろなことを考えて、気に入らなくてもぶん殴ることはできなくなるが、この一文にはそんなの構うものかというパワーがある。

「EV. Cafe」という坂本龍一との共著の中で、村上龍が、頭でこれが重要だと思うことより、体が訴える快感のほうが大事だという話をしていた。頭で殴ってはいけないと考えることより、体のレベルで拒否反応が出るので殴る、みたいなことがこの人にはあるのではないだろうか(ただし村上は同書の中で柄谷行人に言われているように「民主主義者」なので、暴力は振るわない)。いろいろなしがらみをぶっ飛ばし、自分の感覚にすなおになる、そういうことなのかもしれない、そう思った。