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言葉と物語、創作小説

「OZ」

「こんな所まで来たんだから、新兵器でも欲しいのかと思ったよ」

「その必要はありませんよ。これだけ戦争が起これば兵器はいやでも進歩する」

「そうとも。ホモ・サピエンスは結局 戦争という手段でしか人工調節も発展もできやしないのさ」

樹なつみ『OZ』 3巻 白泉社

 

 語りたいことなんかないし語るべきでもないと思う。語った瞬間に陳腐になり果てて墜落するような気がする。語るべき自分(の思い)なんてない。そう思うけれど、この作品に関しては語ってしまう。この作品の魅力を知ってほしいと思って語りたい衝動に突き動かされる。

 上記の会話は科学都市「OZ」のボス・リオンと主人公の傭兵・ムトーの会話。特筆すべきはこの作品が少女漫画誌に掲載され1991年に発刊されたということだ。今ではこのような少女漫画は存在し得ないのではないだろうか。少女漫画なのでこの2人のキャラクターは美麗な成人の男性として描かれる。だがこの場面で歴史上の「狂気の独裁者」と同じ願望を持つリオンの異常さは暴かれる。そのリオンの美しさゆえにその狂気は際立つのだ。

 今、同じような魅力を持った少女漫画が現れるのだろうかと疑問に思ってしまう。少女漫画自体に興味を持たなくなってひさしく経つ。同様の強力な魅力を持った少女漫画が存在するなら読んでみたいと思うが、そんなものはおそらくないだろうと思って探そうともしていなかったりする。

 同作は星雲賞を受賞もした本格的なSFなので、興味のある方にはぜひ読んでいただきたいと思う。もちろんSFに興味がないかたにもぜひ読んでいただきたい。語りたいことなんてない、と言いながらも、この作品については語らざるをえないのだった。

憎しみのない愛はない

ローレンツは「憎しみのない愛はない。愛のない憎しみはない」ってうまい言い方をするわけです。性による男女の結合なんていうのは、ほんとうにそうだと思います。そういうものすごく矛盾した両義性を持っているんだと思いますね。
村上龍坂本龍一『EV.Cafe』河合雅雄の発言)

 ローレンツは動物行動学者であり、河合雅雄は霊長類学者である。河合雅雄は臨床心理学者の河合隼雄の兄でもある。男女の結合、とあるが、この文章が1989年に発刊された講談社文庫から引用しているので、表現が古い。今なら「男女」とは書かれないかもしれない。

 純愛、という言葉があるが、それは幻想なのかもしれない。愛していれば憎しみ、嫉妬することもあるだろう。愛するにしても憎しむにしても、相手のことをどうでもいいとおもっていればそんな感情は存在し得ない。相手が自分にとって何らかの意味のある人間だから、愛し、もしくは憎しむのだ。

 ここでは「性による男女の結合」と書かれているので、親子間の愛情などはこの文章には当てはまらないのかもしれない。そこには、純愛が存在するのかもしれないが、それもまた幻想なのかもしれないのである。いずれにせよ、人間は純粋に愛することなどできない存在なのだろう。

北杜夫という人

「どうだい、あれの印象は?」Hは夜空に異形な姿をさらしている大ゴシック建築のほうをすかしながら訊いた。
「凄いな、たしかに」と私は呟いた。「しかし、ああ徹底的に凄くっちゃむしろ反感を覚えるよ」
「僕もそうだ」と、Hは夜の街角に立っている娼婦らしい女の影を目で追いながら言った。
「僕たちはあれのことを、オバケ、って呼んでいるんだよ」
北杜夫『どくとるマンボウ航海記』新潮文庫

 ミラノ大聖堂についての会話。Hとは現地に住む日本人の友人の名前。1965年の本なので、娼婦についての描写が随所に出てくる。特に港はこの時代では売春婦がつきものだったらしい。

 おもむきがある文章で好きだ。ミラノ大聖堂を「すかして」見ていたり、「娼婦らしい女の影を目で追いながら」話すHの描写がいい。北杜夫も「言う」や「話す」ではなく、「呟い」ている。おそらくひそやかに2人は話しているのではないだろうか。その空気が伝わるような気がする。

 北杜夫の父親は俳人(であり精神科医でもあった)斎藤茂吉だ。兄は精神科医でエッセイストの斎藤茂太。文芸一家で才能は父親譲りなのだろうかとも思うが、作家になるまではそれなりに苦労したらしい。その才能のひとかけらでもいいので欲しいと思ったりする。

 斎藤茂吉がかつて院長を務めた病院で働いたことがあるが、建物はしゃれていたが病院自体は普通の精神科単科病院だった。当時理事長だった斎藤茂太を一度だけ見たことがある。北杜夫躁状態だったとき(彼は躁うつ病患者でもあった)に電話をかけてきたりしていた、と聞いただけだった。

 

模倣と反復の恋愛

いまや恋愛は、メディアを通じて大量消費される幻想を、模倣と反復によって男女間で共有することに過ぎないのではないか。
斎藤環『博士の奇妙な成熟』日本評論社

 恋愛もののドラマは多い。見ないから内容は知らないけれど、よくこれだけラブストーリーがあるものだと思う。美男と美女が主人公のものばかりで、きっと似たようなドラマが多いのではないだろうか。こうして恋愛は大量消費され、それを刷り込まれた大衆がそれに憧れていく。

 流行っているものは自分も取り入れなければならないという強迫観念のようなものが最近あるように思う。韓流が流行っているから韓流のファッションをして韓流のアイドルを追いかけなければならない、インスタグラムで「映える」写真や動画が流行るから、自分も「映える」ものを探してアップしなければならない、そういう無言の圧力のようなものが蔓延しているように感じる。

 そういう時代では、恋愛も「模倣と反復」にすぎなくなるのだろう。「消費」されているのは「幻想」だけではなく、恋愛そのものではないだろうか。

偏愛

偏愛は、強烈な好き嫌いを伴っている。世界中の誰もが嫌悪しても、自分はこの作品にシンパシーを覚える、それが偏愛だ。
村上龍すべての男は消耗品である。最終巻』幻冬舎

 どうしても好きな作品というのがある。誰が何と言おうと、この作品が好きだ、と言う作品が、数は多くないけれどある。そういう作品に対する感情は、ときめきに似たようなものがある。何度読んでもワクワクする。

 COMITIAに行ったとき、売れていなくてもこの作品が好きだ、という作品に出会うことが多い。「壁」のサークルで評価が高い作品ではなくてもこの人の作品が好きだ、この人の新刊は何としても欲しい、そう感じる作品に出会うことがある。そういう出会いを求めてCOMITIAに行っている気がする。

 偏愛する作品があるということは幸せなのだと思う。偏愛している作品を読むとき、何度読んでも幸福な気持ちになる。それは、至福の時だ。

頼まれもしないのに

「ネット・デビュー」とかいって。頼まれもしないのに、勝手に書いているだけじゃないかと思うけど。
渡部直己『必読書150』太田出版

 

ギャー!!

 

 頼まれもしないのに勝手に書く。書く以上は誰かに読んでもらいたいのだろうが、浅ましい気もする。誰も読まない文章に価値があるんだろうかと思うが、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ネットがあるから簡単に書いて公開することができるようになった。その影響は大きいだろう。書く人は爆発的に増えたのだと思う。みんな「読んで欲しい」から書くのだろうか? 頼まれてもいないのに。書いておいて自分に刺さる。

なぜ言葉が必要なのか

言葉が必要なのは、相手と自分とが独立した別個の人格であり、悲しいことに決して一心同体ではないからである。
(武井麻子『精神看護学ノート』医学書院)

 言葉がなくてもコミュニケーションを取ることが可能な場面はありそうな気がする。たとえば、ただ手をにぎって座っているつつましい恋人たちには言葉は必要ないのではないだろうか。

 しかし名前もまた言葉の一種であり、言葉がなければ名前を呼ぶことすらできない。また声に出さなくても頭の中では言葉で考えているだろう。結局、一心同体ではない自他の境界線が存在する世界では言葉から逃れることはできないのだ。

 でも自分と他人の人格が別であるからこそ、人間同士のかかわりというのがおもしろいのではないかと思う。相手が他人だからこそ人間は愛したり憎んだりする。わかりあおうとして言葉を介して接触する。そこで生じる様々な人間模様が、たぶんうつくしいのだろう。