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言葉と物語、創作小説

「お前を殺せたらなあ」

男は笑わなかった。おそろしく無表情で、なんだかさっき見た大蟻の顔にも似ていた。そのうえ男は、そんなふうに彼女を差上げたままでこう云った。「お前を殺せたらなあ」
北杜夫『夜と霧の隅で』収録『羽蟻のいる丘』新潮文庫

 男と女、それに女の子だけが出てくる短篇である。男と女は特別な関係にあるようだが、女の子はその男の子どもではない。それ以上の設定の描写はなく、登場人物の名前も出てこない。女の子の父親についても言及はされない。

 男が差し上げているのは、女の子である。けっきょく男は女の子を殺したりはしなく、あくまで「殺せたらなあ」なのである。殺したいと思った理由については述べられない。

 剣呑な一言だが、男のせつなさがこもった一言のように感じる。他の男の子どもに対する憎しみや、子どもの父親に対する羨望のようなものも入っている気がする。それらをいっきに表現する、すばらしい一言だと思う。

 こういった一言を書ければなあと思うけれど、斎藤茂吉の息子の芥川賞作家に追いつきたいと思うこと自体がひどくおこがましいとも思うのだった。

わくわくしたくない

自分で音をつくるときに、自分でも一生懸命に考えて納得できる理由がないので、何故か分からないんですが、例えばこの音はこうしたいっていうのがありますね。コンピュータを使うと、必然的に、それを一回数字に置き換えることになるわけで、それが安心できることなのです。自分の情念とか趣味嗜好を数字に置き換えることが客観的かどうかは別のことですが、生のままじゃなくて、違う形に置換して認識し直すということは、安心できる材料なんです。

坂本龍一『EV. Cafe』講談社文庫)

 過去にもブログを書いていたことがあった。このブログを始めるときに探してみたらまだあったのだけれど、「私はこういうことが言いたいんです!!」と全力で主張しているようなブログで読んでいて恥ずかしくなって全部消した。過去の自分に対してお前の考えていることなんて他人は知るかよ、と思った。

 読んで欲しくなければブログなど書かないわけだが、誰かに伝えたいという思いでわくわくしながら、勢いだけで自分の言いたいことを書きなぐることはもうしたくないと思う。自分の感情が出ないものを書きたい。だが、方法がよくわからない。

 坂本龍一が上記の文章で何が言いたいのかわかったわけではないが、「違う形に置換して認識し直す」というのは、有効なのかもしれない。音というものを数字に置き換えるように、文章というのも何かに置き換えられるのかもしれないし、してみたいと思うがどうするのか漠然としすぎて白い霧の中にいるようだ。

「書くよろこび」とはなんだろう。どんな文章でもわくわくしながら書いていて、それが楽しかった時期がある。それが「書くよろこび」なのかもしれないが、そうやって書いたものはおそまつだった。今のところ、霧の中で手探りをするしかないのだろう。

 

好かれること

だれでも人からは好かれたいし、まただれかから好かれることが必要であるが、すべての人から常に愛されたいと思うのは、おとなの態度ではない。
(G.バートン『ナースと患者』医学書院)

 誰でも人からは好かれたい、というのは裏返しても、誰からも嫌われたくない、とはならない。そこを混同することが、「おとなの態度ではない」ということなのだろう。

 誰からも嫌われたくないというのは、無理な願望である。生きている以上、必ず誰かには嫌われる。そこを受容できなければ、それは「おとなの態度ではない」となるのだろう。

「誰かから好かれることが必要である」というのが、人間の本質を表しているのかもしれない。人間はすべての人に否定されては生きていけないのである。

たとえもはやこの地上に何も残っていなくても

たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間は――瞬間でもあれ――愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。

(ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」みすず書房

 解説には、この本の原題は「Ein Psycholog erlebt das K.Z」であり、「強制収容所における一心理学者の体験」と訳すべきものであると述べられている。ここにおける強制収容所とはアウシュヴィッツのことである。ユダヤ人であった心理学者フランクルは妻とともにここに入れられた。

 上記の分はアウシュヴィッツの内部でフランクルが至ったものであるが、ここでいう「愛する人間」は妻のことだ。フランクルと妻は別々の区画に分けられていた。だが妻はこの時点で既に死んでいる。しかしフランクルの妻が生存しているかどうかは関係ないというようなことを書いている。肉体的存在の有無は愛には関係ないらしい。

 こういうことを書きたくて、続けているのかもしれないと思う。書けるかどうかは別の話だが、書くことはやめないだろう。

偏り

 好きな本の文章の一部を引用して書いているが、偏りがあることに気づいた。村上龍関係の本が圧倒的に多い。その他、坂本龍一北杜夫中井久夫斎藤学浅田彰柄谷行人渡部直己、そのあたり。

 好きなのだからしょうがないとも思うし、読んでくれる人が飽きるかもしれないと思う。でもやっぱり好きなものは好きなのだと思う。

 どうして好きかという理由はわからない。考えたほうがいいのかもしれないが、考えていない。読みやすい本を選んでいるというのはあると思う。小説も引用しづらいのであまり出てこない。偏りはあると思う。以前「偏愛」という言葉について書かれた文章を書いた。偏りが偏愛ならそれはそれなりにいいのかなとも思う。

誰も読んでくれなかったら

誰も読んでくれなかったら小説ではない。
奥泉光『文芸漫談』集英社

 一人でPCでワード(もしくは類似のソフト)で小説をコツコツ書いていて誰の目にも触れなかったら、小説ではないのだろうか? そういった根本的な問題はおいておく。

 商業と同人では話が違いすぎるので、同人の場合で考えてみようと思う(商業誌は新人賞に応募する、という形でひとまず必ず下読みの誰かに読んでもらうことができる)。二次創作はジャンルやカップリングだけで読んでもらえる可能性があるので、創作の小説に限ることにする。最初のステップとしては、同人誌を作って即売会に出る、ピクシブや「なろう」などにアップする、というところではないか。公開するということで、これをしないと誰かに見られる可能性はほとんどない。

 だが、ただ即売会に出たり原稿をアップするだけでは誰かの目にとまる可能性は低い。だが、タイトルが魅力的なら誰かが見てくれるかもしれない。まずはタイトルを工夫することが必要なのかもしれない。

 同人誌の場合、デザインを凝ったり、表紙にイラストを入れるなどの工夫ができるだろう。ただし文字書きはデザインが苦手だったりイラストが描けなかったりするので、他の誰かの協力が必要になることも多いだろう。

 ここからあとは「宣伝」の問題になってくると思うが、ここが一番難しいのかもしれない。昔はペーパーを作って他のサークルのスペースに配布したり、他のサークルの通販に同封してもらったりという方法があったが、ペーパーという文化がなくなってこのやりかたはほぼ消えた。今でいえば、たとえばツイッターで「バズる」ことなどが宣伝になるのだろうが、バズる確実な方法はない。自分が万単位のフォロワーがいればつぶやくだけで宣伝になるだろうが、小説を見てもらうことと万単位のフォロワーを獲得することのどちらが難しいか、わからない。

 万単位のフォロワーがいるアカウントが作品のことを話題にしてくれれば宣伝になるだろう。だが、どうやったらそんなことになるのか、確実な方法はない。そもそも作品がそのアカウントに届かなければならない。

 少なくとも同人の世界では、小説でいちばん難しいのは書くことではなく、「どうやって読んでもらうか」なのかもしれない。

書きたくないこと

「私は」で始まるような文章を書きたくないと思うようになった。「私が」「私の」でも同じことである。自分の思いや考えを書くにしても、「私は」「私が」と書き始めなければ意味の通らない文章を書きたくなくなった。見苦しいからだ。おまえの思いも考えも他人には意味がないと思うようになった。

「私は」「私が」と始まる文章で自分のことを書いても普遍性を持たすことのできる人はいる。そういう人は書けばいいと思うし、書くべき人というのもいると思う。

 今は書きたくないだけで、いずれ書きたくなるのかもしれないし、書いても意味のあるものにできるようになるのかもしれない。だが、今は書きたくない。